かみや園+

お茶のことや日々のこと

大事なことはわかりにくい

ここ最近お茶とあまり関係なくてすみません。こんな時なので色々考えます。

コミュニケーションも情報も簡単になった今、速さやわかりやすさが重要視されます。

というより、考えなくていい方に流されてしまう人も多い気がしています。

みんな忙しくて時間がない、というのも理由のひとつかもしれません。

情報も切り取られて、それぞれに都合のいいように発信されることもあります。

文字だけのやり取りでは言葉尻に反応して、意図しないギスギスが生まれたり。論点がすり替わったり。目的が相手を論破することにいつの間にか変わってしまったり。

特に今は顔を合わせることもなかなか難しく、SNSなどでのやり取りになってしまう人も多いと思います。

スピード社会で、わかりやすい言葉に飛びつき、リツイートやシェアで考えた気になる。処理しきれないほどの情報量に埋もれ、何が大切なのかも見失う。自分の考えなのかどうかももうわからない。

それによって読み取る力も減退してしまう気がしています。想像力の欠如。

本質は何を伝えたいのか、論点がすり替わるのも、ここが結構あると思います。(パニックになっているというのもあると思いますが。)

 

スピードが大事なこともあると思います。

でも今は全てが速くて、そこで見落としてしまうこともたくさんあるのかなと思います。

何が正しいか間違いかなんて、そんなすぐに出せる答えではありません。万人の正解もなければ、万人の間違いもない。

健康も不健康も長い時間を掛けた蓄積です。心もそうだと思います。

これを食べれば効く!健康にいい!と言われると、それが売り切れる。

それこそ普段からバランスよく食べて、の話だと思うのです。そして効果がある人もいればそうでない人も必ずいます。自分の体質によっても異なります。

身体のこともですが、それは心にも繋がっていることだと思います。

まず自分を知ること、自分と対話すること、ではないでしょうか。

それはゆっくり時間をかけてやることだと思っています。

そしてそれは外側(社会であったり、自然であったり)にも繋がっていきます。

 

正義になると人は間違う。

これは私がとても尊敬する槌田劭先生の言葉。

私は常に念頭に置くようにしています。

槌田さんは、大切なことを話そうと思うととてもわかりにくい、時間がかかる、と仰っていました。

常に自分は間違っているかもしれない、と思いながらお話されているそうです。

すごく哲学的な方です。

 

なにか問題が起きた時、そうなった原因は色々なことの複合です。ひとつの理由でなったわけではない。それは病気や身体のこともですが、人間関係でも当てはまることはよくあると思います。

物事も自然もそんなに単純なことではない。(いや、ある意味単純なのかもしれない。)

とは言え、考え過ぎて無駄に複雑化させるのもまた違う話で。

でも、外側で起きることも内側で起きることも、その複雑なものをどんどん紐解いていくと、割と根っこは同じだったりします。(なので上記の単純かもしれないに結びつきました)

点と点が線で繋がる、ということが時々あります。そこで気づいたことのみを書いています。

ですので、私もまだまだほとんど何もわかっていません。

 

でもやはり思うのは、そこに愛があればきっと間違いではないのだろう、と。

私は何か選ぶ判断基準は結局ここだと思っています。

 

またしても壮大にわかりにくい話を長々と書いてしまいました。